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これは,いま園部研にいるパキラの物語である.
1990年──.お天気のよい日曜日.
私が日曜日に川崎の研究所に出る時間といえば,のんびりと,昼をだいぶ回った頃だ.
その途中,
「あぁ,行けばまた,紙類ばかりで殺風景な会社の机…….何か潤いが欲しいなぁ」
と花屋さんに寄ってみた.
ミニ鉢に鉛筆ほどの木,というか草にしか見えないものに,「パキラ」の立て札.
これがパキラとの出合いだった.
パキラ(pachira aquatica)は,メキシコ原産の植物だそうだ.芯はしっかりしているが外見はとても明るい木で人気がある.
枝ごとに五枚ずつ広げられた明るい緑のちっちゃな葉っぱは,赤ちゃんの掌のようだ.
小さいのに曇りのない,健やかな「元気」を,そよそよと放射していた.
500円とひきかえに,パキラは,私と一緒に会社に行くことになった.
散らかっていた机の上を整理して,端にちょこんと,幼いパキラの鉢を載せる.
そこに未熟な自分がもうひとりいるようで,なにか気恥ずかしい.
月曜日から,大勢がこの机の前を通り過ぎるが,何も言わない.
気づいてもミニ鉢だ.みんな気づかないふりをしているだけかもしれなかった.
そのうち,書記さんたちが,私のパキラに「パッキー」という愛称をつけてくれていたことを知った.私の代わりに水をやってくれたこともあったらしい.(書記とは庶務業務の人)
それを知ったとき,とても嬉しかった.
自分では,毎週カップ一杯の水をパキラにやることを課していた.
日曜日などひと息ついて,ゆっくりパキラを眺めながらコーヒーを飲み干す.
その紙カップをすすいで,なみなみと水を汲んできてパキラの鉢にかけると,嬉しがってごくごく飲んでくれているような気がした.
私の席の環境が良かったらしく,パキラは,50cmにもなった.
肥料もやらずに毎週一杯の水だけですくすく成長するのは,すごい力と感心した.
いや,一杯では底まで水が通らないから,2杯必要になってきていた.
床から1mを超えているから結構立派なものだ.
自分では水やりを忘れていないと思うのに,葉が次第に黄色くなってはらりと落ちてしまうことがでてきた.書記さんが,感傷深げに
「紅葉(こうよう)ですねぇ」
と言う.“紅葉”なら美しいが,季節によらず落葉するので,私は,
「パキラが弱ってしまったのかな」
と,不安だった.
1993年に幕張の研究所に異動になった.
その1年前から,川崎への出勤は間けつ的になっていた.
このままではパキラが死んでしまう.
それが気になりながら3週間,4週間と水をやりにいけない事態が発生してきていた.
ある夜,川崎研から帰ろうとするとき,ついにパキラの引っ越しを決心した.
50cm以上の背丈に伸びたパキラは,包んだ手提げ袋から何枚もの若緑の掌を出して,四方にひらりひらりとさせていた.
電車のお客さんたちが私の大きなパキラをじっと見やっている間,私は自然と頬がほころんでくるのを我慢できなかった.
計算してみると,1週間に誰かがパキラに水をやる確率が95%だったと仮定して,2年間≒100週間にわったってまったく忘れず水をやる確率は,0.95100≒0.0059,すなわち約0.6%に過ぎない.
つまり,パキラがこのように大きく育ったということは,人間達の努力の証であろう.
家に連れて帰ってきたパキラを,さっそく明るい窓際のテーブルという特等席に置いた.
部屋でくつろいでいるとき,目の前にいつも緑のパキラがいるのは,いいものだ.
これがすくすくと伸びること,伸びること.
ちゃんとした植木鉢に植えかえて,黒土と腐葉土と固形肥料をやる.
水は週2杯になり,週3杯になった.
月日を経た葉は,厚みと艶のある深緑である.
他方,2カ月位までの若い葉は,食べてしまいたくなりそうに柔らかく繊細で,微妙なうす緑をしている.
パキラは私の母親にとっての楽しみにもなった.
実は根元の枝から順々に葉が老いて落ちていくものだということも,このころようやく分かった.
地面近くの幹は表面が汚れたのかと思ったらそうでなく,下から木肌の色になっていく.
根元はちからこぶのように太ってきた.
折ってしまった一本の枝を鉢に挿し木したら,根づいてこれも葉を増やしはじめたので,強さにびっくりした.
パキラは5枚セットの葉を,毎月のようにリズミカルに吹き出す.
毎日毎日成長して大きな葉になっていくので,花火を見ているごとくの楽しさがある.
柔らかい薄緑の芽は産毛のように繊細で,数日であれほど大きくなるとは信じがたい.
だが出てくると長さ20cm,30cmと,楓(かえで)の葉位大きくなるのだ.
葉の先端に透明な露が丸く宿って,朝日に光る.
頭でっかちの長いパキラは,風でひっくり返るようになった.
そこで,大きい植木鉢を買ってきてまた植えかえた.
ついに私の身長を超えたのがパキラ6才の年.
「天井についてしまったら困るよね」
と心配していたのも束の間,パキラ7才の春にはとうとう,高さ230cmの天井に,まあ勇敢にも垂直に正面衝突してしまったではないか.
これには本当に心配になった.
パキラにしては,生まれてからはじめてあった危機であろう.
そのDNAの遺伝情報には,まさか,
「天井にぶつかったらこう回避してどうしてこうして」
などと回避手段が書かれているはずもなかろう.なぜって,自然の野外で進化してきたはずだからだ.
パキラは「ウーム」と考え込んでいるのか,いつものリズムで新芽が出てこない.
待ちに待っていたら,出た.
たしかに芽が出るには出たが,天井と,下から押してくる幹との間にはさまって黒くなって枯れてしまった.
さあ,困った.
また1ヵ月,音沙汰がない.
このまま全部だめになるかもしれないパキラ.
さあ,どうなる……?