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【22世紀へ!園部研】
雑念一管(一) 雑念一管(一)  

私が高校三年のときに書いたものです.
 孤独を感じている方にお贈りします.

 不思議だ。暑い国の人も寒い国の人も、鼻は一つで目は二つ。日本じゃ物は下へ落ちるが地球の裏側の南米でも下へ落ちるそうだ。日本の一日もアメリカの一日も同じ長さ。誰が決定した訳でもないのに、地球上どこへ行っても、物理・化学の諸法則は同じ様に成り立つ。電気の両極が日本で+と−なら、ドイツでは×と÷であっても良さそうなものなのに……。身辺のことと世界各地で起こることは、あたかも第三者が予定したように一致符合してしまう。

 さて仮に、宇宙がまだエネルギーだけの世界だった頃、「神様」という偉大な方が、E=mc2以下、何から何まで定め、運命づけたことが、我々人間に分かったとした場合、その事実は我々にどんな利益をもらたすのか。彼も私と同様に心臓が動いていること、この根拠が明らかになったとて、彼や私に役立つことがあるのか。

 我々は、宇宙のほかならぬ内部に存在する。更に、誕生以来、経験的な色々な知識を得てきている。そればかりか、「我々」、「宇宙」、「存在」等の概念さえも、実は経験的知識である。かような我々に、「なぜそんな経験をするのか」「宇宙以外に存在するというのはどんな事か」といった種類の疑問が、どうして重要だろう。いったい我々の精神というものは、「経験界」に於いてこそ「精神」たりうるのである。ゆえに宇宙・存在以前の問題を云々することは想像の浪費であって、有意義というのはそんな暇に実生活上で有用な法則を考えるような事を言うのである。

 よく考えることがある。何歳頃からこんな事を想い始めたのか忘れてしまったが、何しろ小学生の時分から度々頭に浮かぶ。──「僕」はただ、一つの魂で実際には宇宙の外に居るのだ。魂といっても、人の考えるような透明のモヤモヤしたアメーバ状のものではない。ちゃんと外形も堅さも備えている魂である。現在魂の僕は一つの試練を受けている。その成績が、試練後の待遇(らしきもの)を変えると信じている。

 さてその試練はというと、次の様である。魂の僕は百八十度のスクリーン(もちろん魂でも見ることのできる)の前に腰をかけさせられて(腰なんかなかったっけ)ある長い劇を見せられる。スクリーンに見える人形の一つが、僕に割当てられている。(それはあまり全体を表すことはない) 見なれないせいか、その人形を最初は気味悪く感じたものだ。そいつの送る信号が、音・におい・触覚などコードで魂の僕にはいってくる。一方こちらの出す命令に人形が忠実に従い、人形が僕の思うことを口にしたりする。 だから見事に魂の僕はだまされて、スクリーン中の人形と一体で活動を始める。ドラマは日本の一家庭より始まる。そして僕の操縦する人形と同形のものがいっぱいでてきて、語りかけたり種々の事件に巻き込ませたりする。台本はもちろん宇宙のこっちに居る採点者──彼(ら?)は僕に似た魂でも何でもない、現に僕は、自分以外にこんな試練を受ける者をひとりも知らないのだ──達が作ったのである。台本中にむだな場面は一つも無い。人形がまだ小さい時、後と呼応するある記憶を与えるとか、つじつまの合わない部分もうまく合わせたり、実に巧妙にできた芝居だ。人形は機械の様なものなので、多く働かすと疲れや痛みを信号によって訴えてくる。また人形は、本当は動かなくなっても僕に影響はないのに、やたらに休ませる誘惑を送ってくる。そしてつい考えることと違った命令を人形に送ってしまい、芝居もいよいよ苦しくなってくるのだ。そしていつでも、たとえば人形に     させている時でも     させている時でも、その採点者はジッと見つめている。それをスクリーンの背後に感じるとき、何かぞっとするのだ。

 登場する人形は、ぼくの動かす人形に似ていて、人形を自分の一端のように(今では)思い込んでしまっている魂の僕はその「人間達」も僕のような魂かと、たまに思ってしまう。ただの虚像なのである。勘違いしてはならないのだ。彼らは冷たいディレクターの指示通り動き発声する人形なのだ。僕が彼らに、「試練」を受けている心細さを訴えたりすると、彼らと背後のディレクターは、心の中でニヤニヤしている。この空気を感じると、人形をあやつるのも嫌になってしまう。しかも彼らのセリフは、まるで彼らも試練をされる魂であるかのような「内面の告白」であったりする。僕の心をあらいざらい彼らに打ち明けようなんていかに馬鹿げた事か……。

 孤独をひしひしと感じた時期には、かくの如き考えはとても神秘的で、それでいて妥当性・現実性を多分に含んでいた。しかしながら現在、冷静で分析的な目をもってこのイメージを眺めると、多くの欠点‐誤まり‐矛盾で満ちているのがわかる。逐語的に指摘することもできるが、止めておく。大きな欠陥をいえば、試練・採点者・待遇といった概念は地上の概念であり、仮に宇宙外(実在を超越した存在の世界)に及んだとしても、その由来は新しい疑問となる。

 が、このイメージが、キリスト教・仏教をはじめ、東西洋の古典哲学と同一の底流をもっているのに気付くであろう。だから宗教・哲学も、神秘感、孤独感の産物であるそういう面を多分に持っていると言わねばなるまい。然るにこれらは、前述の通り思索の遊びである。現在生活を営んでいる世界でない所に、霊魂の故郷があったり、本質系が存在するようなことは、我々の経験界の尺度では「あり得ないこと」である。またそんな世界へ連れていかれる可能性もほぼない。だから不安があっても想像の産物と言える。つまるところ経験界に住む我々には経験界以外のことを知ることは要らない。換言すれば、人生の由来やら「人生とは何ぞや」などと考えるよりも「どう生きれば幸福になれるのか」とでも考えた方がいいのだ。

 そもそも宗教は、死にたくない気持ち、自分の正当を或いは努力を信頼する者を求むる気持ち、悪い事をして後悔する自分を許し慰めて欲しい気持ちなど、安らぎを求める心情がもとになって、続いてきたものである。それゆえ、科学が未発達の時代には、「苦しい人生のあとは成仏して、極楽浄土で楽しく暮らす」とか「神さまだけでも自分の正しさを分かってもらい、労をねぎらってもらう」などなどの「非科学的」なことも信じられてきたのである。ところが現代では科学の目ざましい発展のおかげで、「あの世」や「おばけ」は迷信に変わってしまった。この時世に神仏を説いても始まらない。現代人の悩みを救う道はただ一つ、「科学的な、それだけでなく経験実証的なこの世の哲学」である。

 ところで、絶対相対が出ると話は厄介である。確かに人間は相対的なものであり、絶対の真理など分かり得ない。しかし人間の世界には統一性というものがある。統一性というのも宇宙や我々の存在同様、いつの間にか存在している性質である。この統一性は何も人間に限らないのであって、人間を含む生物を含む有形無形の諸物質すべてに当嵌まることである。それを考えた時、世界のあらゆる事象は一つ残らず、自分もしくは自分を含む適当に小さい外界の観察によって、説明がつくのである。時間的視点に立っても同様の事が言える。しかも宇宙以外あるいは時間的にみて我々の生活に無関係な世界、それらは前述した通り我々に必要ない。だから相対的な世界では相対的な真理も成り立つということになるし、それは経験から割り出すべき物である。

 別の形にしてこれを言うと、地球上では、地球と相対的に位置を考えることによって、列車のスピードも自動車の速さも分かる。地球上に居る限り、時速四十キロメートルとか分速百メートルとかで用が足りるのである。しかも地球より一歩も出ないことが分かっていれば、これは実際には相対的なものでありながら、我々にとっては真理とすることができるのである。

 奇異な感じを持つのは統一性である。自分と他人と同じ考えをしていることなど見るにつけ、人間は誰でも皆同じ構造なんだ、皆ひとりひとりが、全く僕のような「自分」というものを持っているんだ、という実感を深くする。この問題こそ統一性によるものだ。統一性を念頭に置くことにより、孤独感は現象するのではないかと思う。そしてまた「生命」や「自己」という問題も、統一性の認識によって非常に簡単に解決するのである。




(31ルーム学級新聞第5号所収.
傍点をゴジックに変え、段落に空行を挿入しました.
枠のついた空白(     )は原文のまま.
イラストは私が2003年に描き起こしました.)


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